これだけの本当

 これだけの本当

 彼女はいつも、夜の九時にやってくる。週に一度、決まって木曜日に。
 僕はいつもその日を待ち遠しく思って、毎日のアルバイト生活に彼女という心踊る花を持っていた。
 彼女は本屋に本を買いに来る客で、僕はただの店員。あたりまえの事だが、僕が彼女について知っている事は限られている。中原中也と山本周五郎を愛読している事と、腕時計にカルティエを愛用している事。長くて柔らかな色の髪を揺らして、陶器のように透き通った肌に紅唇を飾っている。
 彼女について知っているこれだけの本当。まるで何かの映画のようだ。僕は日々、行き場のなく自分の中で渦巻いている悲しみと甘美な思いに陶酔する。
 待ちに待った木曜になり、彼女が颯爽と店に現れても、僕は彼女を見すぎない。目で追ったりなんて、野暮なことはしない。僕が彼女を目に留める回数は一日に二度と決めてあるのだ。一度は彼女が店に入ってくるその時と、彼女が購入するものを決めてレジへ向かって歩いてくる時。それ以外は、さりげなくトレンチコートの裾から覗く足首に目線を落としておく。
 振る舞いはサバイバルである。僕が彼女に恋をしていることを気付かれてしまっては、気を悪くして二度と店に来る事はなくなるだろう。そうなってしまえば、おしまいだ。彼女の勘の鋭そうな利発的な表情に僕は怯える。
 だから、もちろん「好きです」だなんて自殺的な言葉は言えない。臆病な自分と終わりの見えない恋の形に僕はため息をつきながら、僕はただ、彼女の買っていく本と同じ物を読み続けている。
 
 その日は金曜日だった。なのに、日も暮れぬ夕方に彼女は店に現れた。僕は突然訪れた幸福に喜びを噛み締めて、彼女がレジに来るのを待っていた。
 差し出された本は、周五郎でも中也でもなく、料理の雑誌だった。
『ワインにあう簡単レシピ』
 よく見ると彼女の手首には、カルティエと並んで黒いゴムがはめられていた。
 これから料理を作るんですか。誰のために、誰とワインを交わすんですか。
 なんだよ、それ。
 僕はレジスターを叩く。
「七百十四円です」
 雑誌を袋に入れて、彼女に渡す。盗み見た彼女の顔は微笑んでいた。
「ありがとうございました」





     
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