Arizona

 Arizona

 私は、愛し合うことは死ぬことよりも難しいってことを知っているから、同じ場所に居続けることはできない。でも、辿り着きたい場所なんてないからただひたすらに、東京のホテル、部屋の隅っこに座って目をつむる。
 瞑想して。私はアリゾナにいて、砂埃に迷惑しながら、テンガロンをかぶり直してる。空は真っ青で、熱いけれど木陰なんてどこにも見あたらないから、身を寄せるところはなく、ただひたすら歩いてる。ボルヴィックを命綱にして、地に溶けてしまいそうなウェスタンブーツを脱ごうかと考えながら。
「なに考えてるの?」
 私は目を開けた。さっきナンパで知り合ったばかりの茶髪の男が、嫌に大きな目を余計に開いて私を直視している。カメレオンみたいだ。
「べつに」
「あのさ、失礼かもしれないけど、まさか君、病気持ちじゃないよね?」
 自分から誘っておきながら、しかも事の後にそんなことを聞くなんて、この男は、この東京砂漠の熱帯夜のせいで脳みそが蒸発しているのかもしれない。
「…エイズ」
 ええっ?と掠れて裏返った声を出すと、男は固まった。そして、マジで?と呟いた。なんだか急に身体が小さくなってしまった気がする。
「うそ。ごめん」
「なんだよー!いや、だってさ、俺が声かけたとき、すんなりオーケーしてくれたじゃん?もしかしたらーって思ってさ。ああよかった」
 男は本当に嬉しそうな顔をした。見た目は不良でも、心はいいひとなのだろう。笑うと 目元に皺ができて、よくみると女の子みたいだ。
 私は立ち上がった。ベッドから下りて、下着をつける。
「ねえ、携帯の番号教えてよ」
 やだ、と言って服を着るスピードを上げた。汗のせいで服が肌に張り付いて、なかなかジーンズを履く事ができない。
「もしかして彼氏いんの?」
「いないけど、やだ」
「じゃあいいじゃん」
「彼氏欲しくないの」
 私は服を着終えて、トートバックをわし掴みして部屋の出口へ走る。男が何か叫んで追いかけてこようとするけれど、相手はまだ裸だ。私はパンプスを手に持って、裸足で逃げた。
 アスファルトは熱い。でも、アリゾナのあの地よりは生暖かいものだろう。一つ角を曲がると、パンプスをようやく履いた。
 振り返っても、男は追ってきていない。
 私は歌を歌った。イギリス人の作った歌。
「アンジー・シー・セイド」
 アンジー・シーは言った。
人間に愛し合う事なんて 不可能なの。
 だって水じゃないし。人の心の本当なんて知れないでしょ?
 英語はデタラメでも、和訳だけはしっかり覚えてる。
 きっと、アンジー・シーは哲学者だったんだわ。賢くて、悲しい恋愛を何度もした事があるから、恋に燃え上がることを恐れていたのよ。燃え尽きて、灰になることは辛すぎるもの。
 愛してるとか、好きとか、そんな言葉や、セックスだって、そんなことばかりじゃすぐに灰になってしまう。灰になりにくくするためには、理解しあう事が必要なのよ。理解し合うことの中に愛が生まれるんだもの。でも、それが難しいから、人は絶対に灰になる。孤独な灰に。
 東京の夜空に月はない。あるけど、建物のせいでたまにしか姿をみせない。
 私は立ち止まった。
「そういえば、どこに行こうとしてたんだっけ」
 すれ違う人が、ひとり言を言う私を変な目で見た。
 あ、マツキヨにシャンプー買いにいくはずだったんだっけ、と、私はまた呟いた。
 私はマツキヨに行ったら、セブンイレブンによって明日の朝食用のパンを買って、アパートに帰る。
 どこにも辿りつきたい所なんてないから、私は同じ場所へ帰るけれど、同じ場所に居つづける事は私を妙な疎外感に引きずり込む。でも最近は、それが運命なんだと諦めた。これは仕方がないことなの。それでも、やっぱり悲しいから、私は誰かと眠る。男の人は自由な場所を貸してくれる。男の人という居場所を点々と移動して、どこにもいけないでいる私。
 アンジー・シーは言った。
それでも
 今度、少しお金を貯めて、アリゾナに行こうかな、と思った。やっぱりテンガロンをかぶって、荒野で本当にひとりきりになる。ときどき変なカメレオンや昆虫たちに出会って、ボルヴィックだけを頼りに生きるのだ。もちろん、それが死ぬほど危険なことだとしても。辿りつきたい場所を探しに、私は旅立つのだ。


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